社会科公共市民学専修
幅広い社会科学の知識をもち、市民社会を支える人材を育成します。公共と市民の視点から社会学、メディア・コミュニケーション学、政治学、法学、経済学などを学際的に学ぶことで、現代世界の課題に能動的かつ分析的に取り組む「公共市民学」の力を獲得します。
- 取得できる学位
- 学士(公共市民学)
- 取得できる教員免許状
- 社会(中学1種)
- 地理歴史(高校1種)
- 公民(高校1種)
特色
- 1
- 「公共」と「市民」の観点から社会諸科学を横断的かつ能動的に学ぶカリキュラム。
- 2
- 社会学、経済学、法学・政治学、メディア・コミュニケーション学が4本柱。
- 3
- 高校公民の教員免許状を取得しやすいカリキュラム。
社会科学全般を横断的に学ぶことを通じて、社会の諸課題を理解し解決に導く力をはぐくむ
複雑化・多様化した現在社会を理解し、主体的に生きていくためには、一つの学問分野を学ぶだけでは不十分です。一人ひとりが主体的に思考、判断、行動しつつ、開かれた公共圏を築いていくという課題は、学校を超え、政府機関や非政府機関、そして民間企業など、社会の隅々に広がっています。本専修では、社会学、経済学、法学・政治学、メディア・コミュニケーション学を4本柱とし、「公共」と「市民」をそれらの柱の間をつなぐキーワードとして、一つの学問分野の論理に従うのではなく、学際的に現実の諸課題を理解し、解決策を見出していく力を養成するためのカリキュラムを編成しています。
1~2年次には「社会学」「経済学」「法学」「政治学」「哲学」の5つの分野を必修科目として、社会の諸問題を追究するために必要な各専門分野の基礎を固めます。これらの必修科目は、高校公民の教員免許状取得に必要な教職課程科目に含まれるため、免許を取得しやすいカリキュラムにもなっています。3~4年次には専門科目を中心に学びつつ、すべての学生が2年間継続するゼミに所属し、研究成果を論文や作品にまとめながら専門分野を深めます。なお専門科目では、最新の知見を深く学ぶため、少人数クラスの科目を多く配置しています。
3年
一つの学問を超えたつながりを実感します
公共市民学専修では、社会学、経済学、法学、政治学、メディア学、哲学といった幅広い学問に触れ、学びを深めることができます。社会科学全般に興味があり、大学ではこれを学びたい、と決められずにいた私が、この専修を志望した理由はここにあります。実際に、講義を通して、それぞれの学問に対する理解の深まりと考え方の変化があっただけではなく、学問領域にとらわれない面白さを知ることで、視野が広がりました。その中で、法分野、特に憲法学に対する興味が高まり、ゼミでは憲法学を専攻しています。「憲法とは何か」というたった一つの問いを追求するだけでも、さまざまな考え方やアプローチの仕方があり、それは、ゼミ生との議論を通じて、さらに広がっていくものでもあります。そして何より重要なのは、憲法学と他の学問との切り離すことのできないつながりです。このことは、どの学問を専攻していようと関係ありません。必ずどこかで一つの学問を超えたつながりがあり、そこから得られる学びがあります。ここにこそ、公共市民学専修で学ぶことの意義が表れているように思います。
授業紹介
ゼミナールⅠ・Ⅱ(政治学)
このゼミは、「政治思想史」と呼ばれる政治学の一分野を専門にしています。現代は、社会のことから私事に至るまで、何をどのように判断すればいいかが難しい時代です。この時代にこそ、われわれが忘却してしまった大切な思考を備えた過去の思想家に目を向けることが大事です。このゼミでの盛んな議論を通じて、著名な思想家の書物を読みこなせるようになり、現代を生きる手がかりを見つけてほしいと思います。
ゼミナールⅠ・Ⅱ(経済学)

このゼミでは「エビデンスに基づいた政策や企業の意思決定方法」を学ぶことを目標に、経済理論の理解を深めつつ、データを使ったパソコン実習を行っています。3年次はビジネスに近い実践的な能力を養うために、みずほ銀行との共同プロジェクトの下、銀行の保有する膨大な銀行口座情報を用いてのマーケティングや企業行動の分析を、グループ活動として行っています。
教員座談会
若林教授:
「公共」や「市民」という問題を大学で具体的に教えていくときに、どのようにしたらいいとお考えでしょうか。あるいは、そうした切り口から社会について学んでいくことが、これから大学に入って勉強する人たちにどのような意味を持つのでしょうか。
私は、大学自体がある種の公共的な空間だと思うんです。大学という場所は、いわゆる「実社会」から自由になって人と人とが違いに他者として現れあって、出会うことを保証する空間だと思うのです。互いに他者として現れるとき、他者から見られることによって自分を発見する契機が生まれます。アーレントも言っていますが、自分が何者であるかは結局他人にしかわからない。他の人びとへの現れのなかで自分というのを発見しながら、他者と共に世界を作っていくのがパブリックな空間なのだと思います。ゼミも授業も、あるいは大学という場所自体がそういう場所なのではないでしょうか。そういう場所としての大学で、どういうことを我々は学生に伝えていけるのかについて、どうお考えですか。
黒田教授:
私は幼少時代アメリカで育った経験がありまして、そこでは、常にあなたはどうしたいのか、あなたはどう思うかということを問われる環境でした。子どもでも、私はこうしたい、なぜなら自分はこう考えるからだ、ということを言わなくてはならない。そうしたスピリットが割と私の元来の性格と合っていたのか、すんなり受け入れることができていたのですが、日本に帰国したら、他者との距離感というものを非常に気にしなくてはならない、そういう文化の違いを痛切に感じたことがありました。
若林教授:
「みんながこうするからこうしなさい」というやつですね。「あなた」じゃなくて「みんな」。
黒田教授:
はい。その文化のギャップが子どもの時は苦しくて、自分のアイデンティティをどういう風に形成していくかを悩んだ時期もありました。その過程で顕著に感じたのは、日本では創造性や独創性が大事だと小さい頃からずっと教えられているにもかかわらず、とびぬけた発想や異端な意見をいうと疎まれる、そうしたダブルスタンダードのなかで我々は教育を受けているのではないか、という点です。そうした教育システムのなかで、学生たちは模範解答を導き出すことが良いことだというスタイルで勉強をしながら大学に入り、社会に出る一歩手前になって突然、あなたのオリジナリティは何、ということを求められる。そうした画一的な正解を良しとする教育と、一方で創造性や独創性が求められる社会というギャップを日本の大学はゼミで埋めているのかなという気がしています。公共市民学専修におけるゼミの役割は、解は一つとは限らず、世の中には色々な考え方があり、解決されてない問題もまだまだたくさんあって、それをどのように新しい発想で解決していくのかを考える場ではないかと考えています。
若林教授:
公共市民学という学問自体がいまはまだひとつの試みとしてあって、現実にはいまだ存在しないということにも関係することですが、学問というは「これが完成した学問で、これを一通り勉強すればその学問をマスターできます」といったパッケージとしてあるわけではない。多くの大学生やこれから大学に入ろうと思っている人は、そんなパッケージされた完成品として学問があって、それを教えてもらおうと思っているかもしれないけれど、学問というのは決して完成することのないコミュニケーションのプロセスとして存在するのです。どんな教科書も定説も、現時点でとりあえず正しいとされていることを誰かが発信しているのであって、学問を学ぶというのは、まずはそれを受け取ることです。そして、その受け取ったものを自分なりに吟味し、検討し、応用し、批判して、自分なりに応答していくのが学問する、研究するということですね。研究者というのはそうした学問的コミュニケーションを仕事にしている人です。私がゼミや講義でいつも思うのは、学問がそうしたコミュニケーションのプロセスであるということを理解してほしい、ということです。特にゼミは、みんなで話していくことによって、考えるべきこと、問うべきことを発見していくのですから、あらかじめ「正しい答え」が分かっていたら議論にならない。分からないことを持ってきて、みんながそれを共有して、考えるべきこと、問うべきことと、さしあたってその答えになるかもしれないことを発見していく。これは市民社会で世論形成していく原理と一緒なのだと思うんです。「これがわかれば全部解決」というような最終的な解決策は見つからない。たとえば現代のドイツで「最終的解決」というと、ものすごく悪いイメージですよね。「最終的解決」というのはナチスの時代のホロコーストのことじゃないですか。社会というのはよりよい答えを他者たちと共に探していくプロセスなのだから、それを終わりにするような最終的な解決を求めてはいけない。そういうプロセスとしての社会というものに、他者たちと共に付き合っていく。その付き合い方の作法がとても大切だと思うのです。そうした作法を、大学に居る、授業を聞く、先生・仲間と話す、論文書く、といったプロセスのなかで身に着けていくことができるのではないかと思います。
千野准教授:
私がびっくりしたのは、学生は本当にいろいろな可能性、あるいは未完成や未熟なところを多様にもっていることです。授業をしていて、ある話し方をしても、まるで反応しなかった学生が、別のアプローチをすると、見違えるような反応をすることが何度かありました。私自身にも、恐らくその学生にも、何か琴線に触れたのかは分かっていないのだと思います。こうした授業のimprovisationalな側面には、授業をやる方も多くのことを気づかされる、面白い経験です。私も学生と付き合うことを通じて、自分自身が新たな他者性に開かれているし、逆もそうあってほしいと授業をしているなかで日々感じています。
学生と話していても、高校までは同質的な社会のなかで生きてきた人が多いのだなと感じます。そんななか、早稲田大学のような大学に来ると、多様な経験や様々なバックグラウンドをもった人と出会うことで、自分自身の視野が広がるのだと思います。早稲田だけではありませんが、そうした多様性が大学において縮小化してしまうのは非常にもったいないことです。それぞれのバックグラウンドや出身地域などの属性を超えて、様々な人が出会い、共に同じ教室で学び、サークルなどでお互いが何をしているかを知り、そうした経験を通じて自分自身が何をしているか、何をするべきかを発見する、そういったプロセスにもう少し身を投じる人が増えて欲しいと思っています。
伊藤教授:
僕はゼミに関しては、ほぼ若林先生と同じ考え方でやってきた。ゼミを個別指導中心にやられる方もいるが、僕は一貫して15人いたら15人がとりあえず何かをしゃべり、そこで全然自分と違うことを発言しているとか、この本をこんな風に読むのかといった発見が一番大事だと思う。そうすると解答はたぶん一つではなくて、自分の考えに改めて気づかせてくれる、そういう発見がゼミでは必要だし、それは大学の基本だと思う。ただ、この間、とても残念に思うのは、他者の話は聞くが、本に関して言うと、本と対話するという経験はいまの学生にとっては結構難しいということです。本の内容を整理してレジュメを用意して報告することはできるが、それ以上に、この本から僕は、というのがすごく弱くなってきている。一つ一つの言葉から受けるイメージや肌触りを感受することが結構難しくなっているという印象です。
早稲田に来てから数年間は2コマ連続でゼミをやっていた。本を読ませて、理解できずに詰まっても、15分沈黙が続いても、辛抱強く、誰かが話し出すまで待っていたんです。誰もしゃべらない時間でも大事だと思っていた。とりあえず本に向き合え、という風に。それで2コマ、3時間やっていました。しかし、だんだんこっちもきつくなってきて・・・、5分空白があるだけで、ちょっと何か言わないとだめだなとか笑、というふうになり、2コマ連続もだんだんきつくなってきたという感じがしています。
それでも、やはり学生が、一つ一つの言葉と向き合って、さきほども言いましたが、そこで学生が本と対話する、専門書と対話するという経験を、ますます鍛えていく必要があるなと強く感じている。
それからもう一つ、学生がもう少し大学以外のところに出かけていって、そこでいろんな人たちと出会い、いろんな経験するという機会を増やしたいですね。公共市民学専修のカリキュラムでは実習系の科目が多くあるので、そこで学生が他者と向き合うということを身をもって体験できるように進めたいと思っています。
若林教授:
黒田先生のところはグループワークをしたり、外から人を招かれたりされてましたよね。
黒田教授:
一学年だけでなく上下の学年混合のグループワークをしたり、起業をしている方や国会議員など様々なジャンルで活躍している方を招いて講演をしていただいたり、他大学との交流も図ったりなど、様々な活動をしています。同じ専修のなかですと、伊藤先生のゼミとインゼミをさせていただいたり、その前には遠藤美奈先生の法律のゼミとイベントを開催し、腎臓売買の是非について議論をしました。経済学では、腎臓は二つ持っているわけだから、売買が可能になったら提供する人も増えて、人工透析などで苦しんでいる人を救うことが可能になるのではないか、という発想があります。ところが、法学サイドでは臓器の売買を認めるのは良くないのではないかという発想があり、議論が白熱して時間が足りないくらいでした。最後には、これだけ異なる角度からの考え方が存在するのだということを参加した学生が実感できたイベントになったと思います。こうしたエピソードからも、いろんな人と交わるというのはすごく大切だと思いますし、学生という閉じた社会にこもるのではなく、どこかに出かけていったり、誰かを招いたりといった機会も重要で、ゼミではそうした場を増やしていきたいと思っています。
千野准教授:
これだけ社会科学の様々な分野の先生方が、しかもそれぞれのご研究では第一線でやってらっしゃる方が、こんなに集まっているところはそんなにないのではないかと思っています。私自身も、公共市民学専修や広く社会科の先生方のご本やご論文から勉強させて頂いてきました。例えば、近藤孝弘先生の『国際歴史教科書対話』(中公新書、1998年)は私が高校三年生の時に読みました。ちょうど歴史認識における修正主義が擡頭してきた頃でした。私にとっては懐かしい本であり、また歴史学や社会科学が何をしているのかについて理解をもつきっかけのひとつだったと思います。そうした教員が多くいるのだから、学生にももうちょっと教員から得られるものを自分自身で引き出すとか、その、教員をその気にさせるというか、教員を使うというか笑、そういう努力をしてほしいですね。
進路状況
教育を通じて学校と社会の双方に向けた人材養成を展開
公共市民学専修では、メディア・コミュニケーション学、社会学、経済学、法学・政治学を4本の柱とし、「公共」と「市民」をそれらの柱の間をつなぐキーワードとして、一つの学問分野の論理に従うのではなく、学際的に現実の諸課題を理解し、解決策を見出していく力を養成するためのカリキュラムを編成しています。公共市民学専修では、教育を通じて学校と社会の双方に向けた人材養成を展開していきます。
2018~2022年度卒業生データ